アステカ人にとっても謎だった。テオティワカン文明が遺したものとは?
紀元前2世紀頃の大石造建造物、太陽・月のピラミッドの遺跡がある場所は、テオティワカンと呼ばれた街であった。テオティワカンとは、アステカ人の言葉ナワトル語で「神々の都」という意味である。紀元後350年~650年の間は、おそらく15万人の人口であったテオティワカン文明は7世紀頃から衰退した。衰えた理由は未だ原因不明だが、歴史家によると過度の搾取による天然資源の枯渇、ライバル村の侵略と内部の紛争によるものではないかと言われている。
ティオティワカンにある建造物
太陽・月のピラミッド
テオティワカンで一番有名なピラミッド、太陽のピラミッドは建てられた目的が未だに不明である。太陽・月のピラミッドは、世界の他のピラミッドと異なっている。他との大きい違いは “タルータブレロ(基壇があることが特徴)“という象徴的な建築様式であったという点である。
テオティワカンの文化は隣領土のメソアメリカ文明、その時代のコスタリカ、グアテマラ、ベリーズ、エルサルバドル、ニカラグアと呼ばれる地域にも影響を与えており、同様の建築様式が残っている。テオティワカンのメイン通りは、「死者の大道り(カルザダ・デ・ロス・ムエルトス)」と呼ばれており、メインストリートである。その大通りはテオティワカンの主な遺構や建造物、太陽・月のピラミッドやケツァルコアトルの神殿へと続いている。太陽のピラミッドの高さは 65m、底辺220m x 225m。月のピラミッドは高さ47m、底辺140m×150mである。「死者の道」は全長約4kmで道幅は45mである。
ケツァルコアトルの神殿
アステカ神話によると、ケツァルコアトルはテオティワカンの主神である。ナワトル語でケツァルコアトルとは「羽毛のある蛇」という意味(ケツァルは美しい羽の鳥、コアトルは蛇を意味する)であり、世界創造後、神々の知識と芸術を共有するためにケツァルコアトルが人間の姿となりさまよった末、トゥラン(現在のイダルゴ州)に着いたと信じられている。そこで彼は、トゥランの人間に謙虚に生活し、魂の純粋さ、そして化学を学ぶことを教える神となった。そのためトゥランはどんどん成長し、繁栄した。
ケッツァルコアトルは生贄などをやめさせた為平和の神ともされているが、兄弟にしてライバルであったテスカトリポカが生贄を好んだため、ケッツァルコアトルを陥れる作戦を企てた。ケッツアルコアトルは薬を入れたプルケを飲まされ、酔った影響で妹と関係をもってしまった。翌朝、罪の意識に苛まれトゥランから出て行ってしまう。出ていく時、ケッツァルコアトルは、「セーアカトル(一の葦の年)に復活する」と言い残したと言われている。人々はそのことを信じ、「一の葦の年」に偶然現れたエルナン・コルテス一行をケッツァルコアトルの再来と勘違いし(ケッツァルコアトルは人間の姿の際、白い肌で髭を生やしていた)、対応が遅れあっさり侵略を許してしまったとも伝えられている。
他にも「ジャガーの宮殿」や「ケッツァルパパトロル(羽毛のある蝶)」の宮殿などがある。